田んぼアートまでの地図
樫津について
樫津全景
江波は一大湖水であり、広野から上山を越えて来ると、その峠付近には樫の木が沢山生えていた。
そこを抜けて下へ降りると船着場があった。
すなわち、今の渡辺家などがある場所である。
この樫津から舟場へ渡るには湖を越えて、燈明田(ちょもでん)に至り、六地蔵を越え長坂を経て舟場に行くのである。
子安観音 登り口 六体地蔵
観音堂
田中又左ェ門は素封家の一人であり、予て京都の黒谷山内の某寺院の子安観音を信仰していた。
そして武生の大心寺住職桜井徳明師の斡旋でこれを譲り受け、この上山山頂に安置した。
安置する前に山頂を整地し、本堂・石造小祠・鐘楼・参籠堂・湯殿などを造営し、大正十三年(1924)にここへ安置し、自ら堂にこもり、昭和六年死去するまで堂守りを続けた。
そして八月十八日が観音様のお祭りでお参りの人で賑わったが彼の死後は野尻田之助が暫く面倒を見て、昭和二十四年より観音講を結成し同講の人たちが維持管理に当たっている。
日吉神社
祭神は大山咋尊(オオヤマクイノカミ)由来は鈴木武平氏の談を鈴木薫君が記述したものがあるので、次にそれを掲げる。
この日吉神社はもと織田の剣神社の末社として、山王さんというお名前で祀られてありました。
今から四百年程前、1574年(天正2年)に当越前地方で坊さんと武士とが組んで、騒動をおこしました。
それを成敗するために、時の大将、織田信長が徳川家康、豊臣秀吉、その他二十万の大軍をひきつれてやって来ました。
本隊は鯖江、福井方面を攻め、別の隊が武生から八田、舟場、樫津、江波を経て、織田方面へと攻めてゆき、その騒動で剣神社と末社は全部焼かれてしまいました。
さて、焼かれた山王さんの維持ができなくなったので、樫津のご先祖様が引きうけ、現在日吉神社の境内のまん中に樹齢五百年ほどの神木があり、その前にお宮さんを建ててお移ししたと云われています。
日吉神社の神代杉
馬清水
長谷川定右ェ門は樫津の旧家であって、殿様が樫津をお通りになる時はいつも、この家を定宿にしていた。
ある日、殿様がお泊りになった時、その馬が病気で手当ての甲斐もなく死んでしまった。
やむなくその馬を埋めた。その場所が馬清水であって、水のよく出る所は埋めた馬の頭の処だったといわれる。
馬清水は不思議な処で、今の清水が湧く以外のところは水槽を埋めても決して水は出なかったという。